1949年創設 松本書道会
大正・昭和・平成の激動の時代を
生きた現代破体書家
現代破体書家
松本書道会第二代主幹
東洋書道芸術学会第二代会長
松本子游(1924-2015)は、昭和を代表する書家・石橋犀水と、小倉市の名家の娘・石橋希代志の長女として福岡県小倉市に生まれました。
夫は現代破体書道の第一人者・松本筑峯。
そして自身もまた、日本を代表する女流破体書家として、多くの人々に愛された書家です。
その作品は、やわらかく、気品があり、どこまでも美しい。
しかし、その線には、時代を切り拓いた女性ならではの強さと覚悟が宿っています。
松本子游は、破体書の歴史を語るうえで欠かすことのできない存在です。
子游は、幼い頃から書と文化に囲まれて育ちました。
母・石橋希代志の実家は、小倉市でも知られる名家であり、教育や文化、芸術への理解が深い家庭でした。
父・石橋犀水のもとには、全国から書家、学者、小説家、芸術家たちが集まり、自宅では日常的に芸術や文学について語り合われていました。
家そのものが学びの場であり、文化サロンのような空間だったのです。
また、母・希代志からは、女性としての品格や礼節、人を思いやる心を学びました。
後年、多くの人々が子游の作品に感じた「やわらかさ」「気品」「温かさ」は、この家庭環境の中で自然に育まれたものでした。
さらに、尾上柴舟や比田井小琴にも学び、幼い頃から幅広い芸術観に触れながら成長しました。
とりわけ学ぶことが大好きで、日本文学、漢詩、中国文学、歴史、芸術への探究心は尽きることがありませんでした。
その豊かな教養と感性は、後の作品世界の大きな礎となります。
子游は、小倉師範学校附属小学校に入学します。
その後、父・石橋犀水が40歳で広島文理科大学(現在の広島大学)で書道を本格的に学ぶこととなり、家族で広島に移り住みました。
広島市袋町小学校を卒業後、広島県立広島高等女学校に行きました。
広島高等女学校在学中、父・犀水が比田井天来の後任として東京美術学校(現・東京藝術大学)の書道講師の職に就任することになり、東京に移住します。
子游は、家族と一緒に東京に移り住み、 昭和高等女学校に転校し、卒業します。
子游は、どうしても日本文学を学びたくて、日本女子大学校に入学を懇願し、見事合格、国文学部国文学科に入学し、日本文学を学びました。
入学してからは、たくさんの本に囲まれ、著名な教授たちの授業を受けて、楽しいひとときを過ごしていました。
古典文学を愛し、本を読み、学問を深めることが何よりの喜びでした。
本来であれば、さらに学問を続けたいという思いを強く抱いていましたが、時代は戦時下へと向かいます。
学徒勤労動員が始まり、学ぶことさえ自由ではなくなりました。
子游が任されたのは、大量の名簿を筆で書き上げる仕事でした。
まだ十代でありながら、美しく正確な文字で膨大な筆耕をこなし、戦時下の社会を支えました。
父・石橋犀水が東京美術学校で教鞭を執っていた頃、自宅には多くの優秀な学生たちが出入りしていました。
その中の一人が、後に夫となる松本筑峯でした。
若き日の筑峯は、鋭い洞察力と強い信念を持つ青年でした。
子游は、その眼差しの奥にある誠実さと優しさを感じ取ったといいます。
筑峯は、東京美術学校を卒業した後も、石橋犀水の自宅に通い、書道や芸術談義をしていました。
犀水は、松本筑峯のカリスマ性と洞察力、卓越したデッサン力と線質を見抜き、将来書道界を担う人物になると確信し、長女である子游との結婚を勧めました。
子游はまだ18歳。
子游はどうやってこの筑峯との縁談を断ろうか、と考えます。考えた結果、正直に”もっと勉強したいから結婚したくない”と犀水に言います。
いつもは物静かな子游がはっきりと断ったので、さすがの犀水も驚きましたが、犀水からしても良い縁談だと思っていたし、将来の書道界を担うと確信をしている筑峯も子游との縁談に乗り気であったため、時を見てまた子游に話すことにしました。
縁談を断り、学問に専念できると喜びに満ちていた子游。最初は幸せいっぱいでしたが、戦争が激しくなるにつれ、学ぶことすら難しくなっていきました。
学徒勤労動員として、大学に行って、大量の名簿を筆で清書をする毎日。
この戦争の中、松本筑峯もいつ徴兵されるかわからない・・・
筑峯の両親も、犀水も、結婚することを急がせました。
その中での子游の決断。
そして1944年、戦時下という激動の時代の中で二人は結ばれました。
この出会いが、後の破体書の歴史を大きく動かすことになります。
松本筑峯が破体書という新しい表現を追求し始めた当時、その道は決して平坦なものではありませんでした。
1952年、松本筑峯は、岳父の石橋犀水が結成した日本書道教育学会の東京都美術館で開催する展覧会において、満を期して破体書処女作である「鳥遊」を発表しました。
しかし、松本筑峯の破体書の処女作は、のちに日本書道教育学会の月刊誌『不二』の表紙を飾りましたが、一部の学会員からの辛辣な酷評を受けました。
筑峯は、破体書の追求を思う存分にするには、当時の封建的な日本の書壇では難しいと強く思い、日本書道教育学会を離れ、一人で破体書の探究を徹底的に始めました。
既存の書壇を離れ、自らの信じる書を貫く。
それは大きな覚悟を伴う決断でした。
しかし、子游はその選択を自然に受け入れました。
「筑峯が破体に挑むと決めても、不安はまったくなかった」
当時の筑峯は高校教師として教壇に立ちながら、松本書道会の運営、東洋書芸会(現・東洋書道芸術学会)の活動、展覧会運営、研究活動、創作活動を並行して行っていました。
子游は三人の子どもを育てながら、そのすべてを支え続けました。
書道教室での書道講師、展覧会準備、会務、弟子たちへの対応、名簿整理、発送業務。
表には見えない数多くの仕事を引き受け、筑峯が創作に集中できる環境を整えていたのです。
破体書は筑峯一人の芸術ではありません。
子游の献身と支えがあってこそ育まれた芸術でもありました。
子游は語学にも優れていました。
日本語はもちろん、中国語や英語でも多くの人々と交流し、日本国内だけでなく海外の書家や芸術家とも積極的に親交を深めました。
豊かな教養と品格ある振る舞いは、多くの人々を惹きつけました。
国や文化の違いを超えて人とつながる力。
それもまた、松本子游の大きな魅力でした。
破体書が日本のみならず海外へ広がっていく過程においても、子游は重要な役割を果たしていました。
子游の作品は、多くの人々に愛されてきました。
筑峯が切り拓いた破体書に、子游は「品格」と「調和」を与えました。
力強いだけではない。
柔らかさだけではない。
芯がありながらも、見る人の心を穏やかに包み込むような美しさ。
それこそが松本子游の書でした。
そのため全国に多くのファンを持ち、松本子游の作品や人柄に惹かれて書を学ぶ人も少なくありませんでした。
2009年、松本筑峯が逝去。
その後、子游は筑峯と約束した五年間、第二代目松本書道会主幹、そして第二代目東洋書道芸術学会会長として前面に立ちました。
もともと病弱で、若い頃から体調を崩して寝込むことも少なくありませんでした。
それでも子游は、筑峯亡き後の会を守るため、静かに、しかし凛として人々を牽引しました。
温和でありながら揺るぎない信念を持ち、門下生を導き続けたその姿は、多くの人の記憶に深く残っています。
強く言葉で導くのではなく、姿勢で示す。
それが松本子游のリーダーシップでした。
そして筑峯と約束した五年間の任期を全うし、2015年2月6日、静かに人生の幕を閉じました。
松本子游が遺した最大の財産は、作品だけではありません。
それは、
しなやかさの中にある強さ
という生き方そのものです。
古典を敬うこと。
学び続けること。
人を大切にすること。
そして、自分自身の線を育てること。
その教えは現在も河野重陽をはじめ、松本書道会の門下生たちへと受け継がれています。
現代女流破体書家として。
松本書道会主幹として。
東洋書道芸術学会会長として。
三人の子どもを育てた母として。
そして、松本筑峯とともに破体書を育てた人生の伴走者として。
松本子游が残したものは、単なる作品ではありません。
それは、美しく生きることの大切さ。
学び続けることの尊さ。
そして、信じた道を静かに支え続ける強さです。
筑峯が切り拓いた破体書の歴史は、子游という存在なくして語ることはできません。
その精神は今も松本書道会の中で息づき、次の世代へと受け継がれています。
気品ある線と、温かな人柄。
松本子游が遺した美の遺産は、これからも多くの人々の心の中で生き続けていくでしょう。
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