松本書道会
現代破体書道の第一人者・松本筑峯の流れを汲む書道教室です。
お子さんから一般の方まで、初心者から師範取得・破体創作まで。
松本筑峯についてのエピソード

名誉会長・松本筑峯を偲び、故人に対する想い出やエピソードを掲載いたします。


小林恵雨先生より

 会長先生から頂いたお言葉にはいろいろと深いものがございましたが、その中で読売・日本文化センター八王子の破体教室でのことでした。
 私は、ある日筆の毛先が割れて、少しも書けず前に進めないことがありました。
 丁度、会長先生が近くに居られて、思い切って書けないことをお話しましたら、筆の洗い方が足りないのだとおっしゃって、水道のところに行って、手を汚しながら丁寧に洗って下さったのです。
 私にとって、近づき難い憧れの大先生が私の筆を洗って下さっているという事に、どうして良いか分からない位、感激してしまいました。そして、暖かいものが、心にしみわたりました。
 心から感謝の気持ちでいっぱいです。
 私にとって、忘れられない先生の一面でございました。

下重紫梢先生より

 突然の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。
 季刊誌『破体』の編集員として5年余りの間、松本筑峯先生のお側近くで働かせて頂きました事を今更のように思い出します。
 中でも、意図せぬ出来事とはいえ、筑峯先生に対して私が加害者となった一件があります。昼食会にご一緒し、分乗した車で東洋書道芸術館に戻った時の事故は、常に私の脳裏から離れませ ん。先生の後部座席に同乗させて頂いた車から降りた際、うかつにも先に降りた先生の手に気づかず、あとから降りた私が閉めた後部ドアと前部ドアの間に先生の小指を挟んでしまったのです。
 一瞬小さな声をあげられた先生に対し、その当事者となった私はどうお詫びすればよいかもわからず呆然とするばかりでしたが、とりあえず湿布薬と包帯をと思い、ドラッグストアに駆け込み応急手当をすることが出来ました。
 日頃から我慢強い先生は、その後一度も怪我のことはおっしゃらず、何事もなかったように振舞われ、私は、大いに救われた思いでした。
 私にとって生涯忘れ得ぬ出来事です。

三枝麗川先生より

 まさしく松本筑峯先生は私の人生を変えてくださったお方です。
 私は字がとても下手な為、書くことが大嫌いでした。主人に「なんとかしたら?」といつも言われ書道教室に行くことに決心しました。教室は会長のお宅でした。
 先生はとてもやさしく、また一面怖い先生でした。よく叱られました。
 いろいろな話も聞いてくれました。「主人が目の病気になって困っているんです。」と言えば、「西八王子駅の○○○病院に行けば。」とか教えて下さいました。
 10年前、私は病気をし、5年位書道から離れ、もう書けないと思いましたが、松本子游先生からお手紙をいただき、もう一度やってみようと思い、基本から金子峰水先生に教えて頂き、その結果又破体を書くようになり、そごうのカルチャースクールに通うことが出来ました。とてもとてもうれしかったです。その時も「大丈夫か。」と声をかけて下さり、前と変わらず心のこもったご指導を受けました。
 昨年12月にお亡くなり、私はショックで何も手につかず主人の前で泣き崩れました。ほんとにほんとに大切な先生、ほんとにほんとにありがとうございました。

三枝先生

東郷風江先生より

 小生と松本筑峯会長との出合いは1996年でした。ビジネスマン生活33年が過ぎ定年間近の55歳の年です。それまで書道といえば、小学生の時に習っただけ。字を書くというより恥を「かく」という筆との付きあいでした。
 数年後の定年を前に、生きがい、健康管理、趣味などについて第2の人生にふさわしいことを探し、離陸の準備をしておりました。そんな時に先輩から書道の話を聞きましたが、「今更へたくそな字を書いて恥をかくのも……」と思いつつ、松本会長の破体書道を見て、琴線に触れる思いでした。
 子供の頃から絵を描くことは好きで、それまでに油絵を描いたり、版画を彫ったりもしていました。破体書道を目にして、これは自分の画いていた書道とは全く異なる絵の世界だと感じたのです。すぐ先輩の紹介で松本会長の書道会を訪ね、入会しました。
 そして、一番印象深く思い出に残るのは、1998年11月に中国江蘇省鎮江市で開催された鎮江市との友好10周年の破体展覧会です。これは鎮江市の焦山破体碑亭建立5周年記念であり、松本会長は80歳・傘寿の年でもありました。周の時代の金文文字を主体とした書道の破体展を漢字の故郷、中国で開催するのは2度目とのことでした。
 小生は中国には私的に何度か訪問していましたが、鎮江市は初めてでした。現地では中国流の中国人独特の「熱烈歓迎」です。
 鎮江市は揚子江(長江)の下流南岸にあり、古くから交通の要衝で、白蛇伝説の金山寺や焦山寺、北固山の甘露寺など名所旧蹟のある場としても知られています。近年では物質の集散地としてだけではなく鉱工業も目ざましく発展しています。香醋の産地としても有名です。松本会長は、当地に破体書道を通じ日中友好の文化の華を22年に渡って築いてこられました。
 その後、松本会長とは2002年の韓国での亜細亜美術招待展にご一緒させていただきました。松本会長には、80歳をこえ、米寿を前に破体書道の発展への情熱やその伝導と啓蒙に日韓の交流を 通じて改めて教えられました。
 今後、会長の意思を胸に破体書道を国内に限らず海外にも広め、国際文化交流を図る大切さを思うとともに故松本筑峯会長のご冥福を心からお祈りいたします。

東郷先生1 東郷先生2 1998年鎮江破体展の折、会長と一緒に

五味渕紫貴先生より

 「これはわかりませんか?」
 読売・日本文化センター八王子の破体書道の授業で、筑峯先生と交わした最初の言葉です。
 その後も草書を楷書に直すことができないといつも笑ってごまかす私に温かくも凛としたお声で指導してくださいました。私は表紫峯先生に書道を習っておりますが、破体書道も勉強したく数年前に教室に入れて頂きました。
 筑峯先生は手術後、驚異的な回復力で復帰されました。東洋書芸展の作品添削の時、雅印は5センチがいいねといわれました。私はその大きさの雅印をまだ持っておりませんでしたので、作製をお願いしました。雅印の出来上がりよりも先生のご体調が心配でずっと忘れかけておりましたが、ご家族の方から先日筑峯先生が私の雅印を休み休み彫られていたのではないかとのご様子をうかがい、涙がとまりませんでした。
 2009年12月5日に重いお身体をおして添削してくださり、私が帰る時ふりむかれ「にこっ」と笑ってくださいました。あの笑顔は忘れません。
 『破体書道』という新しい文化を生み出された偉大な筑峯先生に出逢えた幸運に心から感謝するとともにこの御恩に対し、微力ではありますが社会に少しでも広めていく決意です。

森桃苑先生より

 私は1月末、この時期になるといつも決まって会長先生に言われる言葉があります。
「まだ花粉症にならないか。もうじきなるぞ。今年はすごいらしいぞ……」
 そこで私は、「私が花粉症になるのがうれしそうですね。先生に言われると早くなりそうなのでやめて下さい。」
 ある時は、「森さんは書芸会で一番だね。」と急に言われたので「何のことですか?」と聞くと、「花粉症さ。アハハハ……」
 それには2人で大笑いをしました。
 先生も80才頃まで花粉症のお薬を飲んでいらしてよく効くからと言ってくださった薬が私には効かず、私が先生の年位になったら効くかもしれませんと冗談を言ってとっておいた薬やかゆみ止めの軟膏等、出してみて優しかった先生を思い出しています。
 入会して10年位過ぎた頃でしょうか。『山車』という半紙の楷書の手本を書いていた時でした。私の作品を見て、先生は「縦の線は横に入れて、横の線は縦に入れて。」と言うではありませんか。私は全く意味がわからず、「先生、書いてみて下さい。」といいました。先生は何も言わず書いて下さいましたが、何処がどう違うのか私の頭の中は?次には縦線・横線だけを半紙に何枚も書いて持っていきました。これもだめと言って、朱でレ。良いと言われたのは一割位、それから「山車」が書けなくなりました。先生の書いたのを何度も見直し必死で書いている うちに、ふと私の筆の角度の甘さに気づきました。
 そして書いていったら、「これでいいんだ……」
 私はうれしくて涙が出そうになりました。私にとってはあの事件がつい最近のように思い出されます。先生にもっともっと怒られて精進していれば良かったなと今しみじみ残念に思っています。
 普段はこわい先生ですが、お話してみるとユーモアがあり、書道以外のことでも気遣って下さいました。本当に感謝しております。
 今はただ、にこにこされている先生のお顔だけが浮かんできます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

森先生 2002年破体書個展を府中美術館市民ギャラリーで開催した時ご来場頂き写したもの
「よく頑張ったね」といって一番気に入ったといって下さった「宵の明星」の前で会長ご夫妻と

平松玲峯先生より

 今から15年前、夫の駐在に伴い4回目のドイツにての生活が始まりました。
 書道の方は色々な方が協力して下さいまして、通信教育になり、帰国後は松本会長先生に直接ご指導頂き、当たり前の様な日々でした。
 突然会長先生の訃報を伺いまして私の身体をいつも優しくお気遣い頂きました事に甘え、リウマチの痛みと病気が良くならない話もしておりました。
 大樹は無限に枝を広げ土の中に根をはりめぐらすように、今後は破体が先生の志を受け継がれて東洋書道芸術学会は発展すると確信しています。
 私は最近、病気を受け入れて書道を続けながら、松本子游先生のご指導のもと、松本書道会のご発展に少しでもお役に立てたらと願っております。会長先生のたくさん執筆された偉大な作品を改めて熟読したいと存じます。
 大変お世話になり、ありがとうございました。

青渕南嶺先生より

 私が松本筑峯会長にはじめてお目にかかったのは、読売・日本文化センター八王子の破体講座でした。
 当日教室に入ってこられたので、「この方が会長の松本先生カナ……」と思いました。自然体でにこにこしている様にお見受け致し、「ホッ」としました。
 講義が始まり、今まで聞いた事のない言葉、『契文』、『金文』、『篆書』、『隷書』、『方勢』、『円勢』等が沢山出て私の頭はパンク寸前でした。これから先どうなるのかな、ついていけるかなぁと思いましたが、会長先生の一生懸命な中に時折にこやかなやさしい笑顔を見て、心の清い人だなぁと感じ、私も「頑張ってみよう」と決心致しました。私にとって文化センターの初日が人生で大きな楽しみを作ってくれました。
 会長先生の破体書道への情熱、そして人望の厚さで皆さんから敬慕されるのも当然の事と思います。もっともっと御教授頂きたかったのに残念です。
 本当に有難うございました。
 謹んで心より御冥福をお祈り申し上げます。
 合掌

髙木祥雲先生より

 会長先生と義父・髙木開雲は、陸軍幼年学校の教官のご縁で、定年を前に「書家になる」と決めた時の張り切った義父の姿が浮かぶ。義父は群を抜く昇段のあと、師範となり私共子供世代を指導した。
 作品を出すとすぐ折り返し添削をして返送してくれたが、その早さに感心してたずねると、「大先生がそうした指導だ。」という返事。そのお陰で私はここまで続けられた。
「大先生は陶器に破体を描かれた。」、「大先生と訪れた筆の人間国宝のお宅に行く。」等、海外にまで破体推進の勢にも敬服し、古代の文字、金文の楽しさを教えられたのは、会長先生の金文の無限の表現の可能性の提言と思う。
 髙木開雲、和子、百雲、彩雲、樋口犀霞、髙木悦子、山田房子、髙木護、内田昇と親族まであわせて9名を書展に出品、幼年学校のご縁の古井豊水先生(故人)を輩出した。
 その作品を会長先生にご指導を受けに、開雲、和子両先生が伺い、「それぞれの個性を生かした指導が良い」と大先生に励まして頂いたと嬉しそうに語った。
 ひとりひとりを生かした指導は、開雲先生が亡くなり、さらなる御指導をお願いし、会長先生の読売・文化センター八王子での講義を受講して、強く感じた。
 会長先生の初めての添削で、「直筆で書く」と朱墨で書いて目の前で見せて下さった直線、隷書、金文の筆の入れ方、おさめ方は今も目に焼きつく。
 昨年の作品、『玲瓏一鼓』で「おめでとう」と記念写真に入って下さり、「あとは書き込みだな。」と微笑された。(写真参照)
 その後お願いした大きな雅印は入院中に刻み上げられたと伺い、精進で応えたい!と心底思った。
 昨年、最期の書展の御指導は、何回かいても「難しいなァ」、「こりゃ、難しい!」のお言葉、構想に苦しむ中、崖っぷちで目にしためじろ台教室の『雄図回天』の『回』の筆の動きが、目に見えた。
 筆先の舞う様に胸が躍り、一気に書き上げた作品が今回の読売新聞社賞に取り上げられ、「これだ!!」の会長先生のお声の勢が耳に残る。
 心より会長先生の御冥福を祈り、心から感謝します。
 会長先生の蒔いた種を豊かに実らせたい。

髙木先生

小松原筑穂先生より

~故・松本筑峯先生との想い出~
 出会いは1973年4月。松本筑峯先生のご自宅の教室(現・東洋書道芸術館所在地)を見学させていただいた際、私は先生の書の卓越ぶりに深い感銘を受け、即座に入会を決めた。 以来36年有余、書以外にも実に多くのことを学んだ。
 入会して時の経過とともに先生との師弟関係も深まり、当時は夜の八王子で飲食を共にしたことも度々でした。ご高名な松本先生から直接お声をかけて頂き、親密なお付き合いができたのは実に幸運であり得るところ大であった。
 私にとって、会長先生は人生の師であり、絶えず心の支えとなる貴重な存在でした。
 2002年9月、定年を機に、これまで以上に会長先生に御指導いただく機会も増えた。お会いした際の会話はいつも愛念に満ち、明るく楽しいものでした。そして折りにふれ、小生が目指すべき目標を与えてくれました。有り難いことだと思った。
 2004年11月、鎮江市友好訪問と破体碑亭建立10周年を記念した訪中団の一員として参加した際、万里の長城”ハ達領長城”入り口から各自体力にあわせて女坂をのぼったが、会長先生は健脚そのもので先頭で登られた。会長先生の健脚ぶりに驚かされた。
 2005年4月、亜細亜美術招待展に参加、韓国文化芸術研究会の姜信雄会長をはじめ知己の方たちと歓喜の再会を果たし、握手を交わす友好親善は、「素晴らしく美しい光景」であると実感した。
 2007年10月、驚異的人気を博したシンシナティ展の米国ツアー帰国直後、実行委員会メンバーとして会長先生をおたずねしご報告をしたところ、「よくやった!」、「お疲れ様!」を連発。心からの労いと展示会成功を祝福してくれた。たまっていた疲れがいっぺんに吹き飛んだ気がした。
 松本筑峯先生、長い間御指導を賜り有難うございました。会長先生の創始した破体書が、今後ますます普及することを確信すると共に、破体書の自己研鑽と啓蒙普及に微力ではありますが、全力を尽くす所存でございます。どうか見守っていてください。

小松原先生 めじろ台教室にて会長先生と共に 2009.1.5

石川清玉先生より

~慈父のような松本筑峯先生を偲んで~
 まさかこんなに早く先生とお別れするとは思ってもみなかった。
 昨年12月4日に私は書道の稽古に参上し、先生にご教示を仰いでいた。
 それから17日後の22日に先生はご逝去されてしまった。享年91歳であった。筑峯先生は内臓の癌を吹き飛ばし100歳まで長生きすると思っていたので、亡くなられたとお聞きした瞬間に「ああもう先生とお話できないのね」と胸がいっぱいになり寂寥感が押し寄せてきた。
 私は25年間、八王子の台町教室へ自転車で通い、熱心に指導して頂いた。そこで先生の59年に及ぶ『破体書道』に対する情熱と真摯な芸術家としてのお姿に接することができ、幸せであった。
 私が初めて海外旅行に出かけたのは、今から17年前(平成5年)の中国旅行で先生ご夫妻と一緒であった。上海→鎮江→無錫と見学した。得に鎮江市の鼎石山で松本書道会で寄付した桜の開園式に出席し、大勢の中国要人の方達と交流できたことは、とてもよい思い出となっている。先生は鎮江のホームに到着した電車を眺めながら「石川さん、中国は車両も長く、線路も広々としているだろう」とニコニコして話して下さったことが昨日のように想起される。
 たまに私の拙文が新聞に載ると、その都度ご覧頂き過分のおほめにあずかった先生のやさしい笑顔が目に浮かぶ。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

石川先生

大島武鳳先生より

 勤めの関係から私は書道の勉強をしたいと思うようになりました。
 先生のことを考えた時に、八王子の子安に勤務した時に隣の中学校のPTAの役員をしていた方が松本先生にお世話になっているということが頭に浮かんできました。そのことで、私も先生のご指導を受けることができました。
 それから30年の月日が流れました。
 入門当時は、夕方からのお稽古がありましたので、先生の前で書いて見て頂く人が何人もおりました。私は当時西多摩の檜原町の数馬小学校に勤務していましたので、勤務後夕方になりましたがご指導を受けました。このおかげで児童の複式授業の書道を受け持ちましたが、参考になりました。
 先生とはご指導後にいろいろお話ができました。戦時中のため絵をかく資材がなくなり、書の方に移られたとのこと、私も兵役暮らしをしていた関係で、先生も軍関係の学校で勤務していたというお話も伺うことができました。

金子流山先生より

1990年オーストリア(ウィーン)展
 ギリシャ(アテネ展)に参加、飛行機は往復共に会長先生の隣に座らせて頂きました。(当時直行便はなく、帰国に1日かかりました)
 機中で書道以外のお話を長時間させていただいたのは最初で最後になりました。
 特に印象に残っているのは、私が女性ファッションのパンタロンの話をした時、会長先生がパンタロンってなんだね?と聞かれたので説明すると、それはステテコみたいだ、女性はそんなのが好きなのかね、と言い宮部先生も表先生もはくのかな?といわれ、大爆笑…… また乱気流でコップの水が15センチ位あがり、一瞬深刻になったことも楽しい思い出となりました。

青木南海先生より

 1998年10月31日から11月5日、破体碑亭5周年記念展に夫婦で参加したときの写真です。
 展覧会場(鎮江)前で、会長先生ご夫妻にご一緒に写真を……とお願いしたところ、快く応じて下さった、我が家にとっては貴重な1枚です。
 今となっては宝物です。

青木先生 中国にて会長先生ご夫妻と 1998年10月

江南幽恵先生より

 会長と初めてお会いしたのは、大雪の降っている日でした。
 会長は帽子をかぶっていらっしゃいました。雪かきをしていたのでしょう。ご高齢なのにお元気だなぁと思いました。
 こんなに早い別れが来るとは夢にも思っておりませんでした。
 未熟な私をこれまでそだてて頂いたことを感謝とお礼の気持ちでいっぱいです。
 これからは天国の会長に気に入って頂ける様、努力していきたいと思います。残念で言葉に言い表すことができませんが……
 安らかに永眠されますよう、心から謹んで哀惜の言葉を申し上げます。

武藤緑山先生より

 松本会長には御指導をいただき、本当にありがとうございました。
 私がここまで書を続けてこれたのは、会長の励ましがあったからです。
 もっともっと教えて頂きたいことがありましたが、これからは書の習練を最初から励む努力をしていきたいと思っております。
 会長のご冥福をお祈りするとともに、破体の発展の一助になる様、研鑽を積んでいきます。
 御指導いただきましたこと、永遠に忘れません。
 本当にありがとうございました。

金子牧柳先生より

 会長先生にご指導いただき、心より感謝申し上げております。
 会長先生にはじめて月例書を持ってみていただいた時、「随分力が入っていますね。」「はい、15年ぶりに書きましたが難しいですね。」「(にこにこして)そうですか。頑張って下さい。」との励ましでした。
 会長先生の師弟でよかったと私の人生に自信と勇気をいただきました。真に「驥尾に付す」でございました。
 会長先生にご指導いただいたことは、生徒達にしっかりと伝授していく所存でございます。

花岡珠峯先生より

 下手な文字に悩んでいる時に平松様から池田貫峯先生がお教室を開くので一緒に勉強しませんかと誘われたのが始めです。
 池田先生のご主人様とは、光明学校で主人の中学校の時の先生でした。またその学校の松本保平校長先生が松本筑峯先生の長兄です。なにかと不思議なご縁でつながっていました。
 八王子の台町教室の通うようになって7年、いつも変わらぬ温かい優しいお洒落な先生が待っていて下さいました。方円誌2月号の表題と先生が重なっているように思えてなりません。
 今も筆を持つと1つ1つ先生のお教えが思い浮かんできます。先生、ありがとうございました。

 冬ぼたん
 上野展にて
 微笑んでいる

山口紫華先生より

松本筑峯先生
 あのお優しい笑顔にもお声にも接することはできません。本当に悲しく、寂しく思います。
 書道界に今日の揺るぎなき破体書道を実現されました。その御努力とお優しい御指導にいろいろのことが眼前に彷彿としております。
 私は破体教室にあとから入れていただきましたのに懇切丁寧な御指導をいただきました。もっと早くから教えていただければよかったと残念でなりません。
 3ヶ月ほど経った頃、「だいぶなれてきましたね」と励ましのお言葉をいただきました時は大変嬉しゅうございました。私の支部・むらさき会のグループ展にはお忙しい中、毎回ご高覧頂き、ひとりひとりの作品の前にお立ちになりご覧くださいました。反省会では、黒田節を朗々とお歌いになったお姿が忘れられません。
 私達は悲しみのうちにも先生の御志を継ぎ、先生の理想とされる破体書道を育ててゆく覚悟でございます。
 どうぞ天国に在られましても破体発展のためお導きくださいますよう、お願い申し上げます。

上原美保先生より

 松本先生ご夫妻には、小学校2年生から御指導いただき、43年たちました。
 年月の長さにびっくりすると共に、書道の事を話すとなると自分の人生を語る事と同じになります。
 小学生の頃は台町のお教室に水曜日と土曜日に自転車でよく通ったものです。まだ、現在の東洋書道芸術館になるずっと前のころです。社会人になってもやめることなく続けてきましたが、転機となったのは、私が結婚の為八王子を離れる事になったことでした。筑峯先生にご相談したところ、「通信教育で続けなさい」とアドバイスをいただき、今では通信で学んだ年月のほうが長くなりました。
 私は、学校を卒業後、フルタイムで働き続け、結婚後八王子を離れ子育てしながらも書道を続けてきました。土日にわずかな時間を作り、すごい勢いで墨をすり、練習し、郵送する、そんな毎週でした。筑峯先生からは「東洋書芸展に出品しましょう」とお手本を送っていただきましたが、練習の時間がとれず今に至っています。
 でも、「見るだけでも勉強になります」と伝え毎年東京都美術館に通っていますが、筑峯先生はお茶券を送って下さったりしました。応援してくださっている暖かい気持ちをとても有り難く感じておりました。
 お教室で添削してくださると、「はい、結構です。」と作品を返してくださった事、「なかなか練習できないけれども頑張ります。」と通信の際手紙を入れると、「継続は力なり」とお返事を下さった事、私が病気で練習をお休みしたときは「御身体お大切に。」と返却されてきた添削の隅に書いてくださった事、「千葉でお教室を開きましょう。」ともおっしゃっていました。本当にお世話になり、可愛がっていただきました。
 こんなに長く書道を続けているのは、筑峯先生の力強い字、子游先生の優しい字が大好きだからだと思います。でも、筑峯先生の作品がこれから見られなくなるのが、本当に寂しく、悲しいです。今回の東洋書芸展では筑峯先生の作品の前で思わず涙ぐんでしまいました。
 筑峯先生、本当に長い間ありがとうございました。これからも私は書き続けていきます。
 「また大慌てで書いていますね。」と笑って見ていて下さいね。

田中紫泉先生より

 松本筑峯会長先生に初めてお会いしましたのは、1968年でした。
 私の第一印象は「なんか太った元気のいい子が入ってきた」と思ったそうです。
 そんな事も知らない私は、自分の思うままに励んでいました。
 その後、破体書道に入らないかと勧められて、「第一回筑峯破体グループ展(47人)」に初心者の私を参加させて下さいました。
 会長先生の御指導のもとに作品展はかかさず出品して参りました。
 高嶺の花の書芸大賞をいただき、右も左もわからぬ私に「銀座で個展をしてみないか」とおっしゃって下さいました。今になって考えると私に機会を与えてくださったのも先生のご温情と賭けではなかったのかと思います。
 その2年後紫泉書道室展にもアドバイスをいただき、「頑張ったね」とお言葉を頂きました。
 私と会長先生とは午年でよく馬が合うと冗談を言って先生を困らせました。
 隷書の『風』の払い方を間違えて覚えており、長年平気でいました。そのとき先生は優しく手ほどきしてくださり、この事は私の生涯忘れない想い出になりました。
 海外旅行の折にもいつも私の足の事を心配され、「大丈夫か」と声をかけて下さいました。
 先生は本当に心優しい尊敬する恩師でございました。なんにも先生のご厚情に報いる事もないまま急にお別れになってしまい、ただただ悲しい思いと、「さようなら、安らかに」と祈るしかすべがございません。

菅谷清龍先生より

 まず最初にすべてにおいて感謝の気持ちを込めて「本当にいろいろとありがとうございました」と言わせて頂きたいと思います。
 人生の中で、すばらしい先生にお会い出来た事、人生の中で「書」に対しての向き合い方を教えて下さった事。自分のいつも「まあこの位でいいかな」と入門当時思っていた自分をすぐさま見抜き、「自分なりにやれるまで、やれるところまで考え、そしてやり通しなさい。」と教えて下さった事。
 そしていつも上手に書けないなと思っている私に対して、「考えてばかりいてもだめです。考えている時間があるのなら書きなさい。書いて、書いて、書いているうちに先が見えてきて必ずそれなりの答えも見え、前に進めます。」と教えて下さった事。
 そして2009年12月、お亡くなりになられる直前のお稽古の時、今まで上野で開催する東洋書芸展に出品する作品は、全て仏教の中の教えの言葉を選んでいましたが、それについて、「仏教の中の教えの言葉を書いているけど、来年からはもっと広い分野の中から選び、金文になおした時、変化のある字を選びなさい。」と教えて下さいました。
 その言葉が最後の教えの言葉となってしまいました。その言葉を胸の中にしっかり受け止め、自分なりに一歩一歩、確実に前へ進んでいきたいと思います。
 これからも「心の通った書」に心がけます。本当にありがとうございました。

平野紫祥先生より

 先生が亡くなられたと聞いた時、頭の中が一瞬真っ白になった。
 これからどうしよう?もっともっとたくさん教えて頂きたい事があったのにという思い。
 いつも元気で、にこやかな先生の姿しか浮かばない。
 普段は笑顔の先生が、ある時昼食に出て事務所に帰るのが遅くなった人に、大きな声で、「時間は守れ!」と言われた。はじめての先生の怒りに触れ、びっくり。
 しかし、この『時間を守る』というのは先生の信条であったようで、上野での東洋書芸展の展覧会の受付当番の時、時間に遅れ(電車の遅れが原因だったが)言い訳は通らず、その後1年以上に渡って「遅れちゃいかんよな。」と受付当番を引き受けるごとに言われた。
 『約束時間を守る』
 これはとても大事なことで、相手の時間を無駄にしてしまう事につながるし、相手に迷惑をかける事になる。時間に厳しいという先生の姿が今も目に浮かぶのです。
 考えていた以上に早い先生とのお別れ、破体についての不勉強に言いようのない無念さが残るが、先生に教えて頂いた事を少しでも無駄にせずにいけたらと思うのです。
 先生の御冥福を心よりお祈りいたします。

中村霞城先生より

 顧みると35年余りの歳月が流れていました。
 会長先生には、書はもちろんのこと私事でもいろいろお心にかけていただき、心から感謝しております。
 書については、優しく厳しく御指導くださいました。
 時折、「これ書いてきてよ」とピンチヒッターとしての宿題を出されましたが、これは”常に努力せよ”との言葉の代わりと有り難く頑張ってまいりました。
 息子が中学生の頃だったか、破体について、会長先生に質問をしたいと伺ったことがありましたが、お忙しいのにもかかわらず、会長室で1時間ほどの時間をご割愛くださり、いろいろと説明してくださったのを覚えております。破体創始者として長い年月、研究努力されてきた大先生が、自分の弟子のみでなく、若年の子供にまで応えてくださったのでした。
 また、池袋の破体教室で学ぶようになった時、「同じ所に行くのだから一緒に乗って行きなさい」と毎回重陽先生運転の車を廻してくださり、往路はご一緒させていただきました。車中では、楽しい話で笑いながら過ごす時もしばしばでした。
 自営の仕事だった夫の入院を心配して、事務局に勤めさせてくださったことも忘れられません。
 いろいろな想い出に、今改めてお心の温かい人情味あふれる先生だったと感謝しております。
 まだまだ未熟で、もっと多くのことを教えていただきたかったと思います。

岡本芳華先生より

 松本筑峯会長先生の急なご逝去は会員の皆さんそうである様に、私も大きな落胆でした。
 しばらくは呆然として何も考えられませんでした。
 でも、こんな事では、先生は喜ばない!!破体の勉強を続ける事で恩返しをしなければ・・・・・・と思う様になりました。
 私は”書”の上で、先生に叱ってもらった事はありませんでした。まだまだ叱っていただく”域”には達していなかったのです。
 先生がお元気なうちに、叱っていただく程の”書”が書けなかったのが、残念で心残りです。
 数年前の新年会の先生のお言葉で、『自分の顔を持ちなさい』と話されました。
 今の私にはまだまだですが、いつの日か、自分の顔が出来上がるべく、破体を勉強して参りたいと思います。
 破体は、やればやる程、奥が深く難しく、そして楽しいという事を教えていただきました。
 有難うございました。

眞船雪山先生より

 松本筑峯会長と私との一番の接点は、破体誌の表紙や裏表紙にある。
 横浜の大倉山で私たち夫婦が行った二人展に展示した私の山の写真に会長が興味を持たれ、破体誌の表紙に使いたいからと提供したことが、きっかけとなった。
 54号に一度使って頂いたが、二人展の後、70号から平成20年の冬号まで8年余りの長期間、会長と月例の添削の合間に写真のご説明など楽しい一刻を過ごせ、そして表紙の巻頭語はどのように表現されるかが大変楽しみであった。
 会長が亡くなられた今、私にとってはまさに貴重な時間であったし、忘れ得ぬ想い出となっている。
ただただ、御冥福をお祈り申し上げます。